明日を拓け!長谷川貴大

アーチェリー 長谷川貴大(日本テレビ放送網)
栄光を目指すアスリートの現在

的中の快感から始まった

「右足2分の1欠損って言うんですよ」

 長谷川貴大は自分の障がいについて最初に説明した。野球少年だった小学3年生の時、突然の病で右足切断を余儀なくされた。入院生活は10か月に及び、退院後もリハビリの日々だった。義足をつけて野球に戻ったが以前のようにはできない。野球をやめてふさぎ込んでいた6年生のある日、家族で行った高原のレジャー施設でアーチェリーを体験する。なんと、初めてやって真ん中に当たった。この時の気持ちよさが、長谷川のアーチェリーの原点となった。

 体をあまり動かさず、上半身を使って弓を射るアーチェリーは、下半身の不自由な人が早くから親しんでいたスポーツだ。健常者と障がい者の隔たりが少なく、国際大会でも車椅子の選手が健常者の選手を破ることがあるという。

「これなら一緒に戦えるんじゃないかと思いました。競技人口も比較的少ない。実際、中学2年で全国中学総体3位になりました」

 長谷川のホームといえる船橋アーチェリーレンジは、全国でも数少ない本格的なアーチェリー場で、オーナーは県のアーチェリー協会会長でもある小川優光さんだ。長谷川にアーチェリーを手ほどきした小川会長は、14歳の時に障がい者の大会に遠征して優勝させたと懐かしむ。

 そう、長谷川は中学・高校時代は健常者・障がい者どちらの大会でも活躍していたのだ。高校生ランキングでベスト8に入っていたことから、大学もスポーツ推薦で決めた。そして、大学1年の19歳で北京パラリンピックがめぐってきた。

ロンドンを見送ってチェリオ誕生

 個人ベスト16、団体4位というのが北京の結果だった。これは相当に悔しかった。高校まではだれとでも対等に戦えるととんがっていたが、走り込みができない自分とオリンピック選手とは体の作り方が違う、などと実感していた。

 それだけに、パラリンピックのメダルを渇望していたのかもしれない。実際、直前は朝から暗くなるまで打ち続けるなど無茶をしていた。帰って来た長谷川は全く練習に身が入らなくなった。オーバートレーニング症候群だった。 

 練習は続けたが、それまでのアーチェリー漬けからは寄り道と言える、飲み会ありデートありのキャンパスライフを過ごしてみた。

 そして、そのまま就職活動シーズンに突入する。ロンドンパラリンピックは就職する2012年だ。ロンドンを目指すのか、就活か。

「アーチェリーは、41歳でオリンピック銀メダリストになった山本博さんのように年をとってもできる。大学生として就活できるのは今だけだと思いました。どうしてもテレビ局に入りたかったんです」

 長かった入院生活で貴大少年を救ったのはテレビだった。当時は自分がどんな病院にいるのかもわかっていなかったが、実は病室のすぐそばのテレビ局で、自分が楽しんだ多くの番組が作られていた ことを後に知った。採用されたが義足で制作は無理だろうと覚悟していた。しかし、「いや、お前は制作でいける」とスポーツ局への配属が決まったのだ。

 同期入社に長谷川姓が二人いたため、新入社員歓迎会の場でニックネームがつけられた。

「アーチェリーでリオパラリンピックを目指すんだろ? チェリオだね」

回り道を強さに変える

 入社1年目は夢中で過ぎた。2年目になってふと、「やり残したことはないのか」という思いにとらわれた。希望どおりスポーツの感動を伝える仕事に就いたが、自分自身が選手として挑戦できることはもうないのか。

「リオを目指すと決めたら"初心"という言葉が浮かびました。このアーチェリー場で練習を始めると、中学時代の僕を覚えている人が声をかけてくれるし、教えてもくれる。ありがたいです」

 アーチェリーの練習はきつい。射場にいなければうまくならないから練習時間も長くなる。平日は200本、休日なら300本は打ちたいからだ。課題は「平常心」だという。

「練習中は枠に行くのに、試合だと堅さが出てしまう。練習では当てたいなんて力まず、ココを直そうとか思いながらやるからいいんですね。でも試合ではつい『当ててやる!』とか思ってしまいがちなんです」

 一人で考える時間、自分なりの理論が必要な、精神力が試されるスポーツなのだ。加えて、雨や風など天候によっても打ち方を調整する技術も、ひたすら射ることで培っていかなければならない。

「スポーツで発散するって言うでしょう。でも、アーチェリーはやっている時は我慢で終わったら発散していい。普通のスポーツと逆なんです」

 アーチェリーをからかうような言葉と笑顔からはブランクを静かな闘志に変えた強さが伝わってきた。

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